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07-08-14 「カラマーゾフの兄弟」

キリスト教の教えを中心に据える宗教小説で世界でも日本でも絶大なる愛読者を持つドストエフスキー。が、世界の在り方、人間の在り方はキリスト教では語り尽くせない、という想いがあり、それ故この小説に限界を感じてしまう。今となってはこの小説が生きるよすがと成り得るのかという疑問も感じる。
不自然な展開も多いし、ゾシマ長老の改心一つ取っても唐突でムリがある。登場人物の中で不自然さをまぬがれているのは一人アリョーシャのみで、それとても感情移入して追いかける気持ちにはなれない。いったいこの小説のどこが世界中の人たちを引き付けるのだろう?昔読んだ「罪と罰」も主人公の言い訳ばかりでうんざりしてしまった記憶がある。

作家にとって、究極のテーマは世界と人間の在り方で、それは特定の宗教を下敷きにして描かれるべきものではない。何故なら宗教以前にも人間は存在し、その在り方を思索してきただろうからだ。キリスト教だけが人間を救うわけではないし、例えそこに理想を見つけてもそれが全ての人に当てはまるわけではない。
キリスト教にも闇がある。おそらく真理の世界とは光そのもので、そこに闇はない。闇を作るのは光そのものではなく、光の当たった対象でしかない。
宗教もいわば対症療法で、根本的な真理とはいえない。作家が目指すべきは真理の追究で、特定の宗教に救いを見出すものではない。
世界は混沌としていて執りとめがないが、その執りとめのなさは原因の多くが宗教だったりする。人は宗教を通して繋がり、宗教を通していがみ合う。特定の宗教では信じる者さえ救われない。そう思ってしまうオレは信心が足りないのだろうか。
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2008年02月13日 未分類 トラックバック:0 コメント:0

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